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Denngonnbann 2016 vol146
鵜の木八幡神社でのおもちつき(東西町会合同)
東日本大震災から5年が過ぎました。
実感として、この歳月をどのように感じていますか?
被災地から離れた地で過ごす私たちにとって、震災前後の差が、ぼやけたものになりつつあると感じているのは、私だけでしょうか。悲し過ぎる記憶は、時の経過とともに変化していくのは、人間の構造上良くも悪くも仕方のないことだと思います。
人として、これでいいのだろうか、このままでいい訳がないと思っている人が、たくさんいることを感じていても、具体的に、継続的に支援や応援ができていたのだろうかと問われれば、答えに困る。
東日本大震災をきっかけに、多くの人々の関心を集めた「放射能」の問題。
今も、これからも闘い続けなければならないと、約束をさせられたにすぎません。未来、果たしていつまでとも言えないこの戦いに、自身だけでなく子どもたちや、子孫までもが得体のしれない危険な「放射能」と向き合っていかなければならない生活を、強いられた瞬間だったと言えます。震災直後は、専門家と呼ばれる方々が、メディアにこぞって出演し、それぞれの見解を述べる様子が、毎日のように目に飛び込んできました。我が家では、すべてにおいて「わからない」ってことが、判明したと解釈しました。
以前から、私自身この「放射能」「原子力」という全くの未知の世界でありながら、なぜか常に気になる存在でした。
子どものころに見た「はだしのゲン」。修学旅行で行った「長崎の原爆資料館」。父からもらった「ビキニ事件の真実」という本から見えてくる「核」の恐ろしさ。知人が脱サラして始めた、茨城県で取れたての新鮮野菜を移動販売するといい、直後におこった「東海村臨界事故」。直接的な被害を受け開業早々、廃業に追い込まれたこと。そして、子どもたちとよく行った福島県。思い出の地が、放射能によって汚染され、二度と同じ思いで見ることのできない景色へと変わってしまった。
震災で初めて知った「原子力」がこんなにも、生活に密接にかかわっていたこと。
知れば知るほど、知らなかった、知らなさすぎた「現実」が押し寄せるように愕然とする。
1999年9月、2名の死者と、600人以上の方が被ばくしたとされる「東海村臨界事故」。
茨城県那珂郡東海村にある、住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オーが起こした原子力事故。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。東海村はその名を「原子力村」とも呼ばれ、原子力開発の中心地だったという。
事故当初、まわりの住民に、多くの情報がもたらされることはなく、福島の原発事故と何ら変わりなく被害が拡大したことが悔やまれる。
多くの悪しき経験があるにもかかわらず、繰り返される「原子力問題」。
そもそも、人が太刀打ちできるようなものではないようにすら感じてしまう。それでも、着々と「再稼働」という言葉が聞こえてくる。だからといって、すぐに「廃炉」にして終わらせることができない。エネルギー確保のため、多くの知恵や技術が開発されているが、根本的な解決策が見えてこないのも現実である。
日本の沿岸には、50基以上の原発が存在するそうです。
それは、一体何を意味するのか。
原発推進派、反対派とよく言われますが、そんな極論ではなく、ただただ日本で安心して暮らしたい!お米やお野菜、お魚を美味しく食べたい!当たり前だと思っていた生活は、瞬時に失うこともあることを知った事実を、未来を担う人たちに、どうやって伝えていったらいいのだろう。
今年4月、熊本で大きな地震が発生しました。
いまだ、多くの方が避難所生活や車中泊を余儀なくされていることに心痛みます。
震災を経験された多くの方が、ボランティアとして活躍され、全国からたくさんの支援も集まっていると聞き、ほっとする一方、生活再建問題や人口流出など、スピードと継続という難しい課題に昼夜問わず、取り組む方々にも頭が下がる思いです。
今回の熊本地震で「火災」が非常に少なかっことは、奇跡だと思います。
前震と本震、度重なる大きな余震で多くのまだ新しいと思われる建物が、倒壊していることを、先日一級建築士の方にお尋ねしたところ、「やはり度重なる大きな地震に、耐えうるのは大変難しい」とのことでした。
まずは、身の安全を確保し、日頃の備えなど、大事なことですが、何より大切なのは、ご近所とのおつきあい。目に見えないものですが、防災はもちろん防犯上にも欠かせないものです。ご近所のみなさんと「和」をもって普段から接することが、一番有効な手立てだと思います。学校、自治会、町内会など、連携強化が自身や家族を守る強力な武器となることでしょう。先人の教訓を生かせるように、前を向いていきましょう。